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| は じ め に |
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私の父親は非常に厳しい人で、社会的にも家庭的にもさほど変わりがありませんでした。ですから自分の妻すなわち我々の母親に対しても厳格でしたので、常に夫婦喧嘩が絶えませんでした。そういう家庭生活でしたので、我々兄弟は家庭的な温かみとしての両親の情愛を、さほど感じぬまま成長してきたようでした。
その反動か、我々兄弟はお互いを思いやる気持ちがより強く作用してきたような気がします。私が学生時代に家を出たことから、私より2歳年下の弟が家を継ぎ、若林家の家長の役割を立派に果たしてくれています。
私がアメリカのシアトルで暮らしていることもあり、そうそういつも会えるわけではないのですが、我々兄弟もそれぞれが50代になり、会えば屈託のない肉親の情愛がしみじみ感じられるようになって来ました。
例えば昨年の夏、私の長男潤の結婚式に出席するために横浜から弟の宏と甥の一宏君がシアトルにやってきた時のことです。一宏君は私の次男慶より一つ年下の25歳でしたが、まだガールフレンドがいないとのことでした。
慶には可愛いフィアンセのクリスティーがいて、彼らカップルとカズ君と私でお茶を飲んでいる時、彼らの馴れ初めを聞かせてやりました。 |
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数年前の慶のワシントン大学情報学部の卒業式に出席した時でした。5−6人の女子学生を慶から初めて紹介されましたが、連続でしたから名前など全く覚えられませんでした。
当日の夜、その紹介された女子学生達が親子二人の話題になりました。その中で一番チャーミングな女の子が、自ら握手を求めてくるなど一番フレンドリーでしたので、「ああいうタイプの子が、慶のガールフレンドならばいいね」と父親としての願望を漏らしたのです。
そうしたら、慶が「実はお父さん、彼女はクリスティーといって、僕のガールフレンドで、もう交際して2年以上になります」と告白したのです。
これには驚きました。なにせ、女性の前に出ると恥ずかしがりやの慶は、まともにしゃべれなかったのです。
「僕は、け、け、慶です」と、言葉がすんなり出てこないぐらいのシャイな男の子だったのです。 |
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 潤の結婚式にて宏とカズ君 8/20/05 |
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こんな体験談をしてやり、やはり恥ずかしがりやで照れ屋のカズ君を励まそうとしたのです。それから数日後、潤の結婚式も終わり、宏とカズ君を案内してラスベガス・グランドキャニオン旅行からシアトルに戻ってきた日でした。
キッチンで戻ってきたばかりの我々3人に慶が、お茶を入れてくれました。その時、前述の慶とクリスティーの馴れ初めの話を宏に私がしたのです。話し終わった時に、カズ君は「茂叔父さん、その話は前に聞きました。・・・」というし、慶は「もう何度も聞いている。・・・」といいます。
さらに、弟の宏が「年を取ってくると同じ話を何度も何度も繰り返すんだよ。兄貴もそれだけ、年を取ったんだよ。・・・」
同じ話を繰り返ししたという意識が全くなかった私は、少々ショックでした。55歳で老人性痴呆症の症状が出てきたのかと笑ってしまいました。
そして、その時から 4 ヶ月が過ぎて、私が 4 年ぶりに日本へ一時帰国して、宏の家族が「能登」という日本料理店に招いてくれた昨年の冬でした。節っちゃん(宏の妻で私の義妹)に、私が老人性痴呆症の症状が出てきたかもしれない、というシアトルでの体験談をしましたら、「私などしょっちゅうあるから、お兄さん心配要らない」と慰めてくれました。
さらに彼らの次女で大学3年になる圭子ちゃんが、「うちのお父さんも年中ですよ」と平然と言ってくれました。
ところが、それを聞いていた宏が「バカだなー。お父さんの場合は、お前らに分からせるために意識して繰り返しているんだよ」と反論していました。
ところが、娘のほうは「うそうそ、けっこう酔っ払って同じこと繰り返しているんだから・・・」 その言葉に節っちゃんもカズ君も首を、縦にふって頷いていました。 |
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後列宏・節子夫婦と前列郁子さんと私 5/28/06 |
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この反論の反論にたいして弟は、笑うほかなかったのです。そういう微笑ましい光景を眺めていて、私は妙に安心したものでした。老人性痴呆症もさほど悪くはないし、そういう一面を指摘してくれた弟の存在は、有難いと思ったものでした。
弟の人柄を知らしめる青春時代の二つのエピソードがあります。最初は彼が横浜国大の空手部で活躍していた頃ですが、空手部の打ち上げで一気飲みをしたらしく急性アルコール中毒になり、救急車で病院に運ばれたことがありました。
当時、弟は米問屋でアルバイトをしていたのですが、急遽ピンチヒッターが必要になり私が代わりに行ったことがありました。一俵すなわち60キロの米袋を運ぶ肉体労働でしたので、連日首から下が疲労困憊したにもかかわらず頭脳を使わないので、眠れないという体験をしたのです。一週間後、その店主の息子が大学受験生でしたので、米運びよりも家庭教師をして欲しいとのことで、頭を使うアルバイトに代わったことがありました。
弟は意外にも青年期には酒席で断れきれず、飲み過ぎるせいか救急車で運ばれたほろ苦い体験があったのですが、一方経済学の勉強もよくやっていました。我々の学生時代の経済学の教科書は、ノーベル経済学賞受賞者サムエルソンの「経済学」(上)(下)でした。私は慶応でサムエルソン経済学研究会を主宰して、グループで2年がかりでサブノートを作成しました。それに対して、弟は一人で膨大なるサブノートを独学で作成したのです。
弟はそういう風にして経済理論の基礎を習得したのですが、さらにヤクルトに就職してから、財務や投資で現実の経済を理解するために、さらに頭脳に磨きを掛けたのに違いありません。ですから、私よりもずっと生きた経済に精通しています。人間的にもおおらかで、これまでにも経済的のみならず、精神的にも大きな支えになってくれましたので、ようやく永住権取得に繋がったものと感謝している次第です。 |
| 2006年7月16日 レドモンドの自宅にて 若林 茂 |
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